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神社・寺院

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平安時代に創建した寺院 /ホームメイト

中国文化を吸収した奈良時代が終わると、それを咀嚼して国風文化へと昇華させる平安時代が始まります。また、国政と仏教が密接につながっていた奈良時代と違い、平安時代には政治と宗教に一線が引かれるようになりました。

僧である「空海」(くうかい)や「法然」(ほうねん)らによって新しい仏教が興され広められたのもこの時代。様々な文化や宗教的価値観が広がりを見せる中、それらと密接に結びついた寺院等の建築様式にも独自性と多様性が見られるようになったのです。平安時代に創建された寺院の中から代表的な物を取り上げ解説します。

金剛峯寺

金剛峯寺の歴史

金剛峯寺

金剛峯寺は、真言宗の開祖である空海(弘法大師)が、和歌山県の高野山に建てた寺院。819年(弘仁10年)から建立が始まりましたが、山深い場所であることから工事ははかどらず、空海の存命中に完成した部分はごくわずかでした。

あとを引き継いだ空海の弟子たちにより主だった建物の完成を見ましたが、その後の歴史の中で何度か火災に見舞われ建物が焼失しています。

平安時代中頃には衰退を見せた時期もありましたが、1016年(長和5年)頃、齢60歳の僧「祈親上人」(きしんしょうにん)により復興。平安末期には末法思想が信じられていたこともあり、多くの人が救いを求めるようになっていました。皇族や貴族も例外ではなく、高野山信仰が広がったのです。

戦国時代には武士の間でも高野山信仰が広まりましたが、その一方で「織田信長」や「豊臣秀吉」といった時の権力者との対立が激化します。

その後、豊臣秀吉は高野山を庇護するようになり、消失した伽藍や金堂の再建に協力。「興山寺」(こうざんじ:和歌山県紀の川市)や「青巌寺」(せいがんじ:三重県津市)など新たな寺を建立しました。2004年(平成16年)、高野山はユネスコの世界遺産として登録されています。

金剛峯寺の見どころ

襖絵

大広間と持仏間にある襖絵は一見の価値ありの芸術品。金剛峯寺の大広間は、お釈迦様に感謝を捧げる「常楽会」や花祭りの「仏生会」が執り行われる場所です。

江戸時代初期の絵師「斉藤等室」の作と言われる「群鶴」(ぐんかく)が見られる他、「狩野探幽斎守信」(かのうたんゆうさいもりのぶ)の作「梅月流水」(ばいげつりゅうすい)、「山本探斉」による「柳鷺図(りゅうろず)」が展示されています。

また、金剛峯寺「柳の間」の別名は「秀次自刃の間」。1595年(文禄4年)に、豊臣秀吉の甥で豊臣氏第2代関白であった「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)が自害した場所としても知られています。

蟠龍庭(ばんりゅうてい)

「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」も金剛峯寺の見どころのひとつ。蟠龍庭は日本国内最大の石庭として知られており、弘法大師御入定1150年を記念して1984年(昭和59年)に施工されました。

500坪という広さを誇り、その全面に京都産の白川砂を敷き詰め雲海を表現しています。その雲海が浮かぶように表現されているのは花崗岩でできた、つがいの龍。奥殿を守る役目として、向かい合った雄雌の龍を配置しています。

東寺

東寺の歴史

東寺

東寺は平安京の正門である羅城門の東側に配置された寺院。西側には西寺が置かれ、それぞれが平安京の左京と右京を守る役目とされていました。

南北朝時代の文献によれば、東寺は平安京遷都後から2年後の796年(延暦15年)、「藤原伊勢人」(ふじわらのいせんど)が中心となって建立したとされています。

823年(弘仁14年)には真言宗の開祖である空海(弘法大師)が、「嵯峨天皇」(さがてんのう)から東寺を賜りました。これ以来、東寺は国を守るための官寺であるとともに、真言密教の道場としての役割を担うこととなったのです。

鎌倉時代に入ると弘法大師信仰が高まりを見せ、東寺も広く信仰を集めます。皇族からの莫大な寄進を受けるなど、その地位は大きく向上。その後も東寺は「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)や室町幕府の開祖「足利尊氏」(あしかがたかうじ)などに庇護され栄えました。

1591年(天正19年)には、豊臣秀吉が土地を寄進。その後も「徳川家康」によって五重塔が再建されるなど、時の権力者の庇護を受けました。1994年(平成6年)には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。

東寺の見どころ

五重塔

五重塔

東寺の境内にはたくさんの国宝・重要文化財がありますが、なかでも有名なのは五重塔。54.8mの高さで木造建築としては日本一を誇ります。

落雷などで焼失すること4回。しかし、そのたびに修復されています。

現在の五重塔は江戸時代初期に建てられ、徳川幕府第3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)が寄進しました。

金堂

東寺の金堂は国宝に指定。東寺の建造物のなかでも中心的な存在であり、他の堂塔よりも早く建立されました。空海が東寺を嵯峨天皇より賜った823年(弘仁14年)には完成していたと言われています。

1486年(文明18年)に発生した土一揆で焼失。1世紀近くを経て豊臣秀吉により再建されました。広い内部には本尊の薬師如来坐像、・日光菩薩・月光菩薩が安置。和様と大仏様(天竺様)が折衷された建築様式も見事です。

立体曼荼羅

立体曼荼羅は重要文化財に指定されている講堂の中に納められています。講堂のなかには全部で21体の像が置かれ、それら全体が「立体曼荼羅」を構成。大日如来を中心とする五体の如来像が中央に、金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像が向かって右側に、不動明王を中心とした五体の明王像が向かって左側に配置されています。

その他、梵天・帝釈天像・四天王像も安置。これらの仏像は日本で最も古い本格的な密教彫像と言われ、空海が全体の構想を考案したとされています。

平等院

平等院の歴史

平等院

平等院は宇治川のほとりに位置する寺院。平安時代には貴族の別荘地として知られる地でした。

光源氏のモデルになったと言われる貴族「源融」(みなもとのとおる)が宇治に持っていた別荘が「宇治院」。その後、宇治院は「宇多天皇」(うだてんのう)とその孫を経て摂政である「藤原道長」(ふじわらのみちなが)に引き継がれ、「宇治殿」と呼ばれました。

そして藤原道長の死後、長男「藤原頼通」(ふじわらのよりみち)が1052年(永承7年)に宇治殿を寺院とし、「平等院」が誕生したのです。

その翌年の1053年(永承8年)には、有名な「鳳凰堂」が建立。鳳凰堂の建立は、当時世の中に広がっていた末法思想の影響を色濃く受けており、鳳凰堂には阿弥陀如来坐像が安置されました。

1336年(建武3年)には、足利氏との戦の中で「楠木正成」(くすのきまさしげ)が平等院に火を放ちます。これによって多くの伽藍が消失。しかし、唯一鳳凰堂だけは戦火を逃れ、平安時代に建立された物が現在も存続しています。

平等院の見どころ

鳳凰堂

平等院と言えば、誰もが思い浮かべるのが鳳凰堂。平等院の象徴だと言えるでしょう。鳳凰堂は、1053年に藤原頼通によって建てられた阿弥陀堂です。内部には、末法の世を救うとされる阿弥陀如来の像が安置。藤原時代から存続する貴重な建築物で、国宝に指定されています。

この鳳凰堂を取り囲んでいるのが、阿字池(あじいけ)。その全体像から鳳凰堂は、極楽の池に浮かんでいるようだと形容されることも少なくありません。また、阿弥陀如来坐像の他にも九品来迎図や極楽浄土図、雲中供養菩薩像が配置されています。

観音堂

平等院観音堂は、平等院が創建された当時に本堂があった場所に存在するお堂。鎌倉時代初期に建立されました。当初は道場として使用されたと言われており、内部は質素な造りです。

堂内には須弥壇(しゅみだん:仏教寺院において本尊が安置される場所)が配置されており、これは天平時代に見られた格式の高い建築様式。1902年(明治35年)には旧国宝に、のちに国の重要文化財に指定されました。

平等院ミュージアム鳳翔館

平等院ミュージアム鳳翔館

平等院境内には博物館「平等院ミュージアム鳳翔館」があり、国宝「梵鐘」や十一面観音菩薩立像などの文化財が納められています。

また、最新デジタル技術を駆使して、平安時代・建立当初の平等院を復元した映像を観ることも可能です。

知恩院

知恩院の歴史

知恩院

知恩院の歴史は1175年(承安5年)、浄土宗の開祖である法然上人が東山吉水に草庵を結び専修念仏の布教を行ったのが始まり。専修念仏とは、他の行を実行することなくただひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えること。これが民衆の心を捉え、一気に広まっていきました。

ところが、それをよく思わない古い仏教勢力が反発。それがもとで法然上人は、1207年(建永2年)に四国流罪となりました。その後、法然上人は京に戻りますが、大谷山上にて入滅(にゅうめつ:人間の迷いを捨てて悟りの境地に入ること)。その地に門弟たちが廟堂を建立し、これが知恩院の起源です。

知恩院の名は、法然上人の命日に弟子たちが「知恩講」と呼ばれる法会を催したことに由来します。

江戸時代に入ると、知恩院には大きな転機が訪れました。徳川家康が浄土宗を信仰したため、知恩院を永代菩提所に指定。それを機に寺院の領土は拡大され、現在見られる大伽藍が建立されました。

知恩院の見どころ

三門

1621年(元和7年)、徳川幕府第2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が建立。高さ24メートル・幅50メートルの入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんがわらぶき)、約7万枚の屋根瓦を使用した壮大な日本最大級の木造の門です。

外に掲げられている「華頂山」の額の大きさは畳2畳以上。楼上内部は仏堂となっており、重要文化財の宝冠釈迦牟尼仏像と十六羅漢像が安置されている他、天井や壁には極彩色の天女や龍が描かれています。

御影堂

法然上人が祀られている御影堂(みえいどう)の別名は「大殿」。現在の御影堂は徳川幕府第3代将軍・徳川家光によって建てられました。

外縁は間口45メートル・奥行き35メートル・幅3メートル。伽藍は念仏の根本道場となっており、毎年4月には法然上人の御忌大会(ぎょきだいえ)、12月には御身拭式(おみぬぐいしき)が行われます。

御廟

法然上人のご遺骨が納められている廟堂。廟堂の蟇股(かえるまた)には、桃山様式の彫刻「雲に龍」、「桐に鳳凰」などが彫られており、格調の高さをかもし出しています。

御廟にお参りするための拝殿も併設。間近で法然上人を拝したいと、全国各地から訪れた信徒のお念仏の声が常に響き渡ります。

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