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明治時代に創建した寺院 /ホームメイト
日本には、過去に衰退し近世になって復興を遂げた寺院や、改名して新しくなった寺院などが数多く存在。寺院について考える際に、奈良時代や平安時代に創建された物を想像する方が多いのではないでしょうか。
しかし、明治時代という歴史的には比較的新しい時代にも、その時代に至るまでに多くの歴史を持つ寺院があり、その歴史を知ることは寺院観光をより奥深いものにしてくれるはずです。
明治時代に創建された寺院を3つ、歴史と見どころを合わせてご紹介。また、タイ王国から仏舎利を寄贈されたことにより創建された寺院についてもご紹介します。ぜひ、観光で寺院巡りを楽しんでみてはいかがでしょうか。
満願寺
満願寺の歴史

「満願寺」(まんがんじ)は、兵庫県川西市満願寺町に位置する真言宗の寺院。奈良時代の神亀年間(724~728年)に開創された本寺は、山号を「神秀山」と号し、「弘法大師空海上人」(こうぼうだいしくうかいしょうにん)の教えを奉じる寺院であるとされています。
奈良時代に「聖武天皇」(しょうむてんのう)の勅願(ちょくがん:天皇の祈願のこと)に応じた「勝道上人」(しょうどうしょうにん)は、日本全国に「満願寺」を創建。川西市の満願寺は、勝道上人が創建したうちの摂津国(現在の大阪府北中部・兵庫県南東部)満願寺であり、本尊は千手観音です。
平安時代(794~1185年頃)の中期には、多田院を創建した「源満仲」(みなもとのみつなか)が国家安康の祈願のために帰依。以降は源氏一門の祈願所として栄え、多田三山の一院に数えられています。
1325年(正中2年)、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)により国家鎮護・皇室繁栄を祈願した勅願寺に指定され、室町時代(1338~1573年頃)に入ると、足利将軍家の祈祷所となりました。
その後、1756年(宝暦6年)には「円覚院」・「龍池院」・「西芒院」など多くの子院(本寺に属する寺院)を有していましたが、戦国時代の兵乱で大半が焼失。時代と共に衰微していき、幕末に至るまでに円覚院以外の諸院はすべて他所へ移転され、 明治時代初期に唯一残っていた円覚院を本坊として、満願寺へと改められました。
1881年(明治14年)に建造された山門は、西洋式の建築様式で建立。左右に配された仁王像は旧多田院から満願寺へと移された像です。
満願寺の見どころ

満願寺を訪れた際に最初に通る山門は、洋風の建築様式ですが、どこか中国風な印象もあり独特の雰囲気。山門を通り抜けた先には33段の下り石段があります。この「33」という数字は女性の厄年を表しており、「女人厄除」の石段。かつての円覚院である本坊とその書院庭園も趣があり、訪問客を静かに迎えてくれます。
整えられたサツキやツツジが配置された庭園は、自然の地形と人工物が調和した池泉鑑賞式庭園。春の彼岸の季節に一般開帳されるのが「観音堂」で、ここに本尊である千手観音立像が安置されています。
本尊の千手観音菩薩立像は、兵庫県指定有形文化財。慶応年間(1648~1652年)に再建された「金堂」には、多くの古仏像が祀られています。
金堂には「開眼阿弥陀如来」(めあきのあみだにょらい)が本尊として安置されており、この仏像は眼病回復を願う人々が祈願するようになったことで有名。金堂には、県指定文化財の「十一面観音」や医薬の仏として信仰を集めた「薬師如来」、平安時代に作られた「聖観音菩薩」などの仏像が安置され、貴重な歴史資料として見どころとなっています。
源満仲が自ら彫って奉納したと伝えられる「毘沙門天像」を祀ってあるのが「毘沙門堂」。毘沙門堂には他にも、勝道上人像や地蔵菩薩、帝釈天といった仏像が祀られています。
覚王山日泰寺
覚王山日泰寺の歴史

「覚王山日泰寺」(かくおうざんにったいじ)は、愛知県名古屋市千種区法王町にある超宗派の寺院。開基はタイ王国の「ラーマ5世チュラロンコン大王」とされています。
タイ王国から寄贈された真舎利(釈迦の遺骨)を安置するため、1904年(明治37年)に「覚王山日暹寺」(かくおうざんにっせんじ)として創建されました。
しかし、シャム王国が1949年(昭和24年)にタイ王国と改名したことに合わせて、日泰寺と改名したのです。
1898年(明治31年)に、イギリス人駐在官の「ウィリアム・ペッペ」が北インドの古墳で水晶の舎利容器を発見し、古代文字を解読した結果、それが釈迦の遺骨であることが判明しました。1899年(明治32年)に真舎利がイギリスからシャム王国に譲渡され、1900年(明治33年)にシャム王国から日本へと渡されたのです。
超宗派とは、どの宗派にも属さず複数の宗派によって管理されている寺院のことです。日泰寺は、真宗大谷派や浄土真宗本願寺派、曹洞宗などを始め複数の宗派が合同で管理しており、各宗派の管長(最高位の宗教的指導者)が3年ごとに住職を務めるという独特の方式を採用しています。
覚王山日泰寺の見どころ

日泰寺はタイ王国との関係が深く、他の寺院にはない独自の魅力。ラーマ5世チュラロンコン大王の像や、本堂正面に掲げられた「ラーマ9世プミポン国王」直筆の勅額(皇帝・天皇などが寺院に与える寺社額)が日本とタイの仏教的な連帯を感じられます。
本堂に祀られている「釈迦牟尼如来像」は、1900年(明治33年)にチュラロンコン国王から日泰寺に下賜された像。それまでシャム王国の国宝として千年のときを経た仏像だとされています。
真舎利が安置されている「奉安塔」は、1918年(大正7年)に完成した高さ15mの塔。愛知県の文化財に指定されています。
真舎利が祀られている塔を間近で拝みたいところですが、一般参拝者は奉安塔へ近づくことができません。実際には、奉安塔の礼拝施設である「舎利殿」から礼拝することになっています。間近で見られないのは残念ですが、それだけタイ王国から贈られた真舎利が貴重な品だということです。
また、毎月21日には「弘法の日縁日」、毎年10月8日には「入れ歯供養祭」を開催されます。食べ物や日用品、雑貨などの屋台が並び、多くの人で賑わうこの時期に日泰寺を訪れるのもおすすめです。
宝山寺
宝山寺の歴史

「宝山寺」(ほうざんじ)は、奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院であり、「生駒聖天」(いこましょうてん)の別名でも知られる寺。
宝山寺の開基は7世紀後半の山岳修行者である「役行者」(えんのぎょうじゃ)とされています。役行者は、我が国古来の山岳信仰である修験道(しゅげんどう)の開祖とされる人物。役行者が修行をしていた665年(斉明天皇元年)に生駒山に修行場を開いたのが宝山寺だとされ、かの弘法大師空海上人も修行したと伝えられています。
1678年(延宝6年)に中興開山(ちゅうこうかいさん:衰退していた寺院を再興した人物のこと)の「湛海律師」(たんかいりつし)が生駒山に入山し、「大聖無動寺」(だいしょうむどうじ)を創建。これが、事実上の開山と考えられています。
1680年(延宝8年)に仮本堂が建てられ大聖歓喜天(たいしょうかんぎてん)を祀り、1688年(貞享5年)には新本堂が完成。ところが、のちに弘法大師の真蹟(しんせき:直筆と見られる筆跡)による「寶山寺」の額が発見されたため、1692年(元禄5年)に寺号は宝山寺と改められています。
宝山寺は「お聖天さん」の呼び名で親しまれる大聖歓喜天を祀った寺院であることから、商売の神として大阪商人の信仰を集めていました。また、皇室や徳川将軍家からの祈願もあったため、聖天信仰の霊場としても有名。
1918年(大正7年)には生駒鋼索鉄道(日本初のケーブルカー)が敷設されましたが、これは宝山寺の参詣者があまりに多かったためでした。年間の参拝客は約300万人にもなるとされています。
宝山寺の見どころ

宝山寺に参拝する際にはまず、麓から続く長い階段に驚くはず。1,000段あまり続くこの階段は西日本でも屈指の規模であり、最初の見どころと言えるでしょう。
参道下の方では周りに住居が立ち並び、中ほどにあるのは飲食店や旅館。登るにつれて変化していく周囲の景色をゆっくりと楽しんでいると、巨大な鳥居が目に入ります。寺院までの道のりが長いことは、宝山寺独特の雰囲気を感じるための嬉しい演出となっているのです。
ここで目にする「一の鳥居」も見どころのひとつ。石造りの鳥居としては特に大きく、大しめ縄の迫力も格別です。しかし、お寺に鳥居があることに疑問を持つ方もいらっしゃるのではないでしょうか。
生駒山は、仏教が伝わる以前から修験道の霊山として信仰されていましたが、平安時代に唱えられた本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ:仏が神として化身したという考え)の影響が残っている山。神様と仏様が一緒に祀られた不思議な空間も、宝山寺の魅力となっています。
宝山寺で最古の建造物である本堂も、見どころとして外せません。本堂には、中興開山の湛海律師が作ったとされる不動明王像が祀られています。また、本堂の向こうに見える岩壁は「般若窟」と呼ばれ、弥勒菩薩像が安置されていますが、中に入ることはできません。
しかし、遠い過去に修験者らが険しい岩壁で修行したことが感じられる場所です。他にも、大聖歓喜天を祀る「聖天堂」や湛海律師の木造が安置される「開山堂」など見どころは多数ありますが、なかでも特に異彩を放つのが「獅子閣」(ししかく)と呼ばれる独特の建物です。
獅子閣は、1884年(明治17年)に宮大工の「吉村松太郎」氏が手掛けた客殿(迎賓館)。西洋風の外観に瓦屋根や漆喰の壁といった日本的な要素が混在した獅子閣は、重要文化財にも指定されています。特別公開時にしか見ることができませんが、宝山寺に訪れる際にはぜひ心に留めておきたい見どころです。
