キーパーソン大江広元
京で平家討伐をした源義経は後白河法皇から検非違使左衛門尉に任ぜられる。源頼朝はかねがね自分の御家人が無断で朝廷から官職をいただくのを固く禁じていた。義経も頼朝に弁明はしているが、さらにその上、縦五位下、大夫判官の地位が法皇より下される、そしてとうとう院の昇殿まで許され、拝賀の式が行われた。武士は元来庭に拝座し、上よりのお言葉は朝臣を通じて伝えられるようになっている。だから、院の昇殿を許された時の義経の喜びは想像に難くない。
しかしこの日のことは大江広元によって逐一鎌倉へ報告され、どれだけ頼朝が激怒したことか。
報告した広元は頼朝の知恵袋と言われたほどの能吏です。このころすでに広元は鎌倉の公文所に勤め、京よりの文書を取り次いで報告文を綴ったと思われ、のちの腰越状もこの広元を介しているのである。少なくとも義経のために有利な展開をはかってあげたとは考えられない。
広元は式部少輔維光の子として生まれ、早くから後白河法皇のもとで政策を学び、その院生に通暁していた官吏です。兄の中原親能が頼朝と昵懇であったことから兄に次いで鎌倉に下り、頼朝に仕えた。草創期の鎌倉にあって広元のような頭脳明晰、政治に明るい官吏が重用されたことは当然であった。
京からの凱旋の筈が義経は腰越のここ、満福寺でひたすら兄の沙汰を待つことになる。義経は終日満福寺にこもり、血涙を以て兄に向かって文章を綴った。これを当時の慣わしとして直接宛名を頼朝とすることは憚られ、広元に差し出すことになる。大江広元がこの兄弟のキーパーソンであったことに疑いない。
この腰越状については義経自身の作ではないよいう説があり、使っている言葉などから作者は当時の人ではなく後人の創作ではないかとのこと。まあヒーローには語り継がれ、演目や物語(小説)となっていく過程で創作はつきものってことでしょう。
鎌倉に入れず京へ引き返し、奥州へ流れ、義経はもう一度ここ腰越に戻ってきます。首だけとなって。首は藤沢市の白旗明神の地に埋められたとも。義経ファンはこちらも行ってみてはいかがでしょう。














