

和田岬の探索で薬仙寺に行きました。 神戸市兵庫区今出在家町にひっそりと佇む薬仙寺は、医王山と号する時宗の寺院です。創建は奈良時代の天平18年(746年)に行基菩薩によって開かれたと伝えられ、当初は「船息寺」「船息尼寺」と称し、大輪田泊(現在の神戸港)に往来する船の安全を祈願する寺でした。日本で最初の施餓鬼会が行われた寺とも言われています。 平安時代には天台宗に改宗しましたが、鎌倉時代の延文元年(1356年)、時衆の国阿上人がこの地で念仏修行を行った際、住僧の真如がその教えに感銘を受け、直阿と名を改めて時宗に改宗し、薬仙寺の中興開基となりました。 薬仙寺の名前が広く知られるようになったのは、南北朝時代の建武3年(1336年)のことです。後醍醐天皇が隠岐の島から京へ戻る途中、病に倒れられました。その際、境内に湧き出る泉の水を薬として献上したところ、たちまち病が平癒したとされ、天皇より「薬仙寺」の号を賜ったと伝えられています。境内には現在も「後醍醐天皇御薬水 薬師出現古跡湧水」の石碑が残っています。 また、薬仙寺は平清盛と後白河法皇ゆかりの地としても知られています。治承3年(1179年)、平清盛が後白河法皇の院政を停止し、福原遷都の際にこの地に近い場所に粗末な造りの建物を建てて幽閉したとされ、その建物は「萱の御所」と呼ばれました。境内には「萱の御所跡碑」が移設されています。この御所には、源頼朝と出会い平家追討の院宣を賜ったとされる文覚上人が忍び込んだという伝説も残っています。 江戸時代には、兵庫津において踊り念仏が盛んに行われ、福原西国霊場参拝と結びつき、御詠歌と踊り念仏を合わせた庶民的な芸能が生まれました。境内には、当時の有力町人や夫人の名前が刻まれた2基の「詠歌踊り念佛連名石碑」があり、貴重な民間芸能研究の資料となっています。 薬仙寺は、幾多の災害を乗り越えてきました。明治時代の神仏分離や新川運河の開削により寺域は縮小し、昭和20年(1945年)の神戸大空襲では経蔵以外が焼失。さらに、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災では経蔵を含む多くが全半壊しましたが、地域の人々の尽力により復興を果たしました。 現在の薬仙寺は、静かで落ち着いた雰囲気の中に、歴史の重みを感じさせる佇まいを見せています。本尊の木造薬師如来坐像は、毎年8月8日、9日の2日間のみ公開されます。