徳島県 の寺院(1~30寺院/64寺院)
日本には数多くの寺があり、なかには人気の観光地となっていることもあります。こちらでは、徳島県のお寺をランキング形式で一覧にしました。お寺の名前をクリックするだけで、交通アクセス、拝観時間・拝観料をはじめとした、寺院ごとの詳細な情報を見ることができます。「徳島県の寺院に参拝したい」「気になる寺の基本情報を確認したい」という方におすすめです。寺院一覧は、①アクセス数、②動画、③写真、④口コミの多い順に掲載しています。
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四国地方
- 徳島県の寺院
- 64寺院
- ランキング順
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井戸寺(第17番札所)
所在地: 〒779-3118 徳島県徳島市国府町井戸80-1
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- 徳島県にある。四国八十八ヶ所。第十七番札所の井戸寺。「いどでら」ではなく「いどじ」と言います。元々は妙正寺でしたが、おだいさまが井戸を掘って近所の人が井戸のあるお寺。井戸のある寺というようになって井戸寺になったそうです。地域の方に伝わるのが井戸の中を除き顔が映ったら無病息災。顔が映らなかったら3年以内に悪いことがおきると言われています。おもかげの井戸は覗きこんだ時に危なくないように網がしてあります。想像よりも水は浅いところにあります。映らなかったらというドキドキで覗きますがちゃんと写ってよかったです。綺麗な水がなくおだいさまが井戸を掘った事で街が潤ったとの事です。井戸寺は瀬戸内寂聴さんが眠っている寺として有名です。元々縁があるわけではなく納骨堂のパンフレットを見て気に入って決められたそうです。 地下に納骨されているとの事です。薄いピンクの色のガラスのオブジェがとても綺麗で安らかに眠っているように感じました。全国的にも珍しい七仏薬師如来という聖徳太子が掘ったと言われる御本蔵だそうです。西暦673年に建てられたこの井戸寺は1350年になるそうです。建物も立派でお大師堂が1番古く江戸の後期ぐらいの建物だそうです。作りがしっかりしていてとてもかっこいい印象です。50年ぐらい前に火災になってしまったそうで本堂の中の修復が終わった頃に火事になってしまったそうです。聖徳太子が作ったと言われている薬師如来は家事に近所の方達によって救出されたそうです。たくさんの方達に支えられて、古いという事ではなくその歴史や風景に時代を感じます。見どころは面影の井戸。日限大使。仁王門です。是非参拝されてみてください。お遍路にきてみてください。ここ井戸寺は徳島県徳島市国府町井戸北屋敷80-1にあります。遠方から行かれる方は藍住インターチェンジで降りてください。駐車場は30台ほどです。長期連休には混雑する可能性があります。
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雲辺寺(第66番札所)
所在地: 〒778-5251 徳島県三好市池田町白地ノロウチ763-2
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高松自動車道「大野原IC」から「雲辺寺(第66番札所…」まで 8.5km
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- 雲辺寺(第66番札所)は香川県善通寺市にあるお寺で四国八十八ヶ所の1つになります。山の上にお寺があるため歩いてくのが大変で今回はロープウェイを使ってお参りに来ました。私が行った時期は紫陽花が綺麗でした。 境内は山の中の為か結構アップダウンがあるので注意が必要です。 でもとても自然を感じることの出来るいいお寺でした。
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常楽寺(第14番札所)
所在地: 〒779-3128 徳島県徳島市国府町延命606
- アクセス:
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- 第十四番札所 盛寿山 常楽寺 延命院へ行ってきました。 第十三番から約1kmほど歩くと、道は鮎川に架かる橋を渡ります。そこからは、マイカーなら鮎喰川の流れに沿って県道207号線を使います。歩きの遍路なら橋を渡って左折、旧遍路道を行 くことになります。そこから少し歩けば、 小高い丘の上に建つ常楽寺の伽藍が見えてきます。 車窓から眺める流域の風景もいいですけど、川沿いから離れて集落や田園の中を歩く旧道もなかなかに味があるんじゃないでしょうか。このあたりは車も少なく、のどかな風情にひたりながら巡礼の旅を楽しむことができるでしょう。春や秋ならば、吹き抜ける風も心地よいと思います。遠くの山々には、木々の緑も美しく映えるのが見えるでしょう。 参道の登りはややきついですが、周囲の奇岩が目を楽しませてくれます。手すりも用意されているのでゆっくり歩けば楽しいです。 歴史と由来についてですが、弘仁6年 (815)、弘法大師がこの地で7日間の修行をしたときに創建した寺とされています。このとき、大師は弥勒菩薩のご来迎を拝し、その姿を2尺6寸 (約80cm) の像に刻んで堂宇を建立したといいます。美定 ※年間 (1573~92)の兵火でこの寺の堂宇も焼失してしまったのですが、 その後、江戸時代になって阿波藩主・蜂須賀光隆により再興されています。ちなみに、 弥勒菩薩を本尊とするのは四国八十八ヵ寺のなかでもここが唯一です。 しかも、ここの本尊は、京都と滋賀県にある三井寺の本尊とともに「日本三体」のひとつに数えられる傑作仏像として、高く評価されているのです。 利益とエピソードについて。本堂や大師堂をおおうようにして枝を広げる大木。これは「あららぎの霊木」と呼ばれる弘法大師ゆかりの老樹で、あらゆる病に霊験を発揮するといわれています。 みどころですが、平野にぴょこんと飛びでた丘の上にある境内は、周辺の眺望も素晴らしく、四季折々の変化を楽しませてくれるだろのでおすすめです。また、境内には 「流水岩の庭園」と呼ばれる名所もあります。露出した天然の岩肌が庭園の樹木と調和して、印象深い風情を醸していますね。 現在、水は流れていませんが、その光景はまさに水の芸術ですよ。四国を代表する名作庭園との評判も高いらしいので、一見の価値ありです。
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- 第十番札所 得度山 切幡寺灌頂院へ行ってきました。 寺への道ですが、第九番の法輪寺からは幹線道路を進んでいきます。約3kmほど行ったあたりで右折して、徳島自動車道の下をくぐり抜けて、切幡寺へ通じる山道へ入る感じになります。ここからが、今回のルートの最難所!バスもこのあたりまでしかないので、マイカー利用者以外は自分の足で歩くしかないですよ! 徒歩で行くならば舗装道路よりも、それに平行してある旧道のほうがおすすめです。 旧道は昔からの遍路道でもありますし、沿道の風情も素敵です。車にでくわすこともないので、のんびりと周囲の自然を愛でながら歩くことができます。境内までの所要時間は、ゆっくり歩いて約1時間くらい。道沿いに杉の古木が繁る森が見えてくると、もう札所は近いです。 歴史と由来についてですが、弘法大師が四国巡錫の旅の道中で、この地に立ち寄ったとき、着物が破れて困ってしまいまして、近在の民家に縫いの布を求めると、このとき、家の中で機を織っていた娘が、織りかけていた布を惜しげもなく切り裂いて与えてくれたのだとか。 この娘の行為に感動した大師は、お礼に千手観音を刻み、娘を得度させて灌頂を授けたところ、彼女は七色の光を放って千手観音に変身したという逸話があります。その観音像が境内に立っているのです。その後、大師は嵯峨天皇に奏請して、この地に寺を建立しました。寺名、院号、山号はすべて、 大師が遭遇した不思議な出来事にまつわるものです。 みどころ等としては、標高155mの境内は自然環境も素晴らしく、四季折々に美しい草花が眺められる点です。なかでも春は梅や桜の名所として名高いですし、また、山腹の地にあったために戦国時代の兵火にもあわず、境内には古い文化財が多数所蔵されています。なかでも、本堂に安置された弘法大師作の本尊、千手観音像は歴史的価値も大きいとされ、本堂奥の院には、創建時の伝説にまつわる娘が即身成仏したといわれる2体の秘仏も現存しています。 また、山中にある大塔は徳川二代将軍・秀忠が堺の住吉神社に寄進したものですが、明治時代の神仏分離令によってこちらへ移築、現在は国の重要文化財に指定され、日本三大塔のひとつにも数えられるのだとか。
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- 第十一番札所金剛山一乗院藤井寺へ行ってきました。 徳島自動車道の高架を抜けます。四国電力前で、道は県道12号線にあたります。それを左折してしばらく行くと、大野病院や徳島銀行などがある国道318号線が交わる十字路にでます。ここで右に曲がり、国道を歩くとやがて吉野川の雄大な流れが目の前に現れます。ここまで来れば、十一番目札所藤井寺はもう間近です!川辺でしばしの休憩、四国随一の大河の眺めを楽しむのもいいかも。 吉野川を渡るとすぐに、国道192号線につきあたるT字路です。これを左へ、鴨島駅の方向に歩くと参道が右手に見えてきます。十番札所からの距離は約11kmです。山門を入ると見事な藤棚がさっそくお出迎え。5月上旬には紫や白の華麗な花をつける、天然の休憩所です。春には桜、秋には紅葉が美しいです。 歴史と由来については、四国を巡錫中の弘法大師がこの地を訪れたとき、村では疫病が流行していたそうです。このとき、大師は薬師如来を刻んで本尊とし、堂宇を建立して祈願しました。すると、間もなく村人の疫病は平癒したといいます。これが藤井寺の発祥にまつわる伝説で、寺の創建は弘仁年間(810~24)といわれています。 大師ゆかりの寺として、創建当時は七堂伽藍が建ちならぶ大寺院でした。本尊の薬師如来も「藤井寺のお薬師さん」として、人々に厚く信仰されていました。しかし戦国時代、長宗我部氏が阿波の支配を狙って兵乱を興し、このときの戦火で寺は荒廃。また、天保3年(1832年)には失火によってほとんどの堂宇を焼失しています。現在ある本堂や大師堂は、その後に再建されたものですね。 ご利益とエピソードについてですが、弘法大師作のご本尊薬師如来像は、四国に数ある仏像のなかでも最古のもので、重文にも指定されています。昔から厄除けの霊験があらたかなことでも知られ、病気の平癒などの参拝に訪れる人はたくさんいます。 弘法大師は、ここの境内から近い山上の八畳岩に護摩壇をつくり、17日間におよぶ悪疫退散の秘法を行ったといいます。かつての堂宇はすべて灰となったのですが、寺の発祥となった名所の岩は、いまも当時の姿で残っています。時間に余裕があれば、ぜひ見ておきたい大師の霊跡ですね。
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国分寺(第15番札所)
所在地: 〒779-3126 徳島県徳島市国府町矢野718-1
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- 今回は、第十五番札所 国分寺 金色院へ行ってきました。 公共交通機関で行く場合は、JR徳島駅より矢野行きバス終点下車すぐ、車なら14番から約600m。道なりに進むと駐車場が仁王門前、 右手にあります。 第十四番札所からの距離は約600mです。本堂の重厚な屋根に、大寺院として知られまた往時の面影がほの見えます。 寺への道 常楽寺からはほぼ一本道となっていますね。鮎喰川の流れを汲んで広がる田園風景の中を歩いてゆくと、緑の絨毯の向こうに大きな伽藍が甍を並べて浮かんでいます。山門をくぐるとまず目に入るのが七重塔の礎石であったという大結晶片岩です。 近年、大師堂は焼けましたが、重層入母屋造りの本堂は変わらずに威容を誇っています。 歴史と由来についてですが、天平14年 (742) に国家の安泰を願って聖武天皇が全国に建てた国分寺のひとつです。建設を指揮したのは行基と言われています。その後、弘法大師も訪れ、第十五番目の札所に定めました。山門のわきには 「聖武天皇勅願所」 と彫られた石がいまも残っています。当時は四国随一の大寺院だったのですが兵火で焼失。江戸時代に再建されましたが、創建時の規模とは比べようもありません。 しかし、寛保年間 (1741~44) に建てられた本堂は当時を彷彿とさせ、壮大な寺院だったころの面影が残っています。 利益とエピソードについてですが、本堂の右手には、鳥沙摩明王を祀る堂があります。これは、大日如来の命を受けて悪を善へと導く仏様だといわれています。大師が唐から請来したもので、 不浄除けのご利益も絶大なのだとか。納経所には 「鳥瑟沙摩明王の札」も置いてあります。これをトイレに貼れば、子どものおねしょもピタリと治るとか。 みどころは、七重塔の礎石だけではなく、最近では発掘調査も進み、伽藍の回廊跡や寺域を示す溝の跡なども発見されています。 天平時代の大寺院を想像しながら、 境内を歩くのもよいのではないでしょうか。
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- 徳島県徳島市にある臨済宗妙心寺派の寺院の瑞厳寺です。徳島市中心部に聳える眉山麓の伊賀町界隈を南北に通じるモラエス通の起点の位置にあるお寺になります。もともとは別の所にあったそうですが一鶚さんが開山に招じて再興したと伝わっています。御本尊は釈迦如来像です。こちらは四国八十八か所には入っていませんが徳島二十四ヶ所地蔵霊場5番札所となっています。徳島二十四ヶ所地蔵霊場とは徳島市内にある地蔵菩薩を巡拝する霊場となっており1832年に開創されたそうです。江戸初期に作られた山麓の斜面を巧みに利用した庭を初め茶室や三重塔などがある池泉回遊式の庭園が特に有名で知られています。境内には名水である鳳翔水も湧きだしていて趣があります。他にはキリスト教が禁止されていたため、石灯籠に聖母マリア像を刻み、地蔵菩薩像と偽った切支丹灯籠があります。近くには眉山などの観光名所もあるので徳島観光にはおすすめの場所になります。駐車場は約10台ほどあります。
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- 四国八十八カ所の第9番札所、正覚山 法輪寺 菩提院へいってきました。 お寺への道ですが、第八番札所の境内、弁財天と仁王門のあいだを通る大規模農道を約500mほど行ってT字路になったところに案内板があります。ここから左に折れて、約3kmほど歩けば第九番札所に着きます。途中の道沿いはのどかな田園風景の田舎道です。商店や食堂などはほとんどありませんが、澄んだ空気とのどかな景色にいつしか心が満たされます。しかしそれでもお腹が空いてしまうのが人間と言うものです。心の中で煩悩退散と念じつつ、境内にある茶屋でちょっと一服一休み。境内の木々で小鳥がさえずっています。 歴史と由来についてですが、弘法大師が創建した名刹で、本尊の涅槃釈迦如来像も大師の作と伝えられています。 この寺はもともと、現在の境内から3kmほど離れた谷間の地で創建されました。しかし、このあたりは戦国時代に阿波を襲った長宗我部氏の兵乱の最激戦地です。当時あったという壮大な伽藍もすべて兵火によって焼失してしまったそうです。 その後、正保年間(1644〜48年)に現在地に移転して再興されますが、安政年間 (1854〜60年)に失火によって楼門を残し全焼してしまいます。現在、ぽつんとある小さな大師堂と本堂は、明治時代に再建されたものです。 ですので、山門のほかにはこれといって見るべき歴史的建造物もないのですが、静かで落ち着いた雰囲気の境内は、巡礼の旅人にとって格好の休憩所です。木陰でのんびりと寝転がる遍路の姿は、なんとものどかな感じがしました。 利益と逸話についてですが、5年に一度だけ開帳されるという本尊の涅槃釈迦如来像は、その別名も「賢者の寝相」と呼ばれます。お釈迦様がクシナガラの沙羅双樹の下で入滅する直前の姿を模したものだといい、また、このポーズは体が安静な状態を保つには最良の形なのだとか。胃病、あるいは、腰痛などで悩む人は、これを参考にすれば効果てきめんだと言われています。
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- 四国八十八カ所の第7番札所、光明山 十楽寺 蓮華院へいってきました。 寺への道ですが、第六番安楽寺から、県道139号線を土成インター方面へ500mほど歩きます。やがて道は二股に分かれますが、これを右手のほうに入ると、道はしだいにゆるやかな登り坂となります。 約500mほど歩くと、右側に神社がります。ここまで来れば、めざす第七番目札所、十楽寺は近いです。町の人たちと会釈を交わしながら5分も歩けば、やがて堂々とした山門、その後ろに軒をつらねる伽藍が見えてきます。 歴史と由来についてですが、弘法大師は四国霊場開創の旅の途上で、この地に逗留したとき、にわかに阿弥陀如来を感得したそうです。すぐ近くにあった楠に、その感得した阿弥陀如来の姿を刻み、これを本尊として堂宇を建立したのが寺のはじまりです。 四国八十八カ所霊場第七番目の札所となり、やがて阿波北部では最大の寺として栄えました。広大な境内には大伽藍が建ち並んでいたといいます。しかし、天正年間(1573~92)阿波国も戦国の兵乱にさらされ、この寺も度重なる兵火によってすべての堂宇は焼失してしまういます。 幸いにも、創建時より伝わるご本尊は焼失を逃れ、江戸時代の寛永年間(1624~44)に寺が再興されたとき、再び本堂に安置され安住を得ています。寺は天保年間 (1830~44)から明治時代にかけて逐次造営され、現在の寺観を整えました。比較的小さな寺の多い八十八ヵ所寺院のなかでは、その堂々とした寺観は、訪れる人の印象に強く残ります。 利益とエピソードについてですが、光明山という山号には、もちろん心の闇(苦悩)からの開放という意味が込められていますが、本堂の手前には、文字どおりの光明をもたらしてくれるお地蔵様があります。昔から眼病や盲目に霊験があると伝えられ、地蔵の前では、いつも熱心に祈る人々の姿が絶えないといいます。 この寺のトレードマークでもある中国風のエキゾチックな雰囲気の鐘楼門は、記念撮影にも絶好のポイントですね。楼門からつづく長い石段に沿って並ぶ約70体の水子地蔵も圧巻です。また、境内には寺宝も数多く所蔵されています。たとえば、真田幸村が使用したという茶釜などは、歴史や講談などのファンのあいだでも人気が高いそうです。八十八ヵ所の寺院のなかでも境内はかなり広く、壮観な伽藍群を眺めながらのんびりと散策を楽しむのもいいです
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- 第八番札所 普明山 熊谷寺真光院へ行ってきました。 山門から大師堂まで400mの登り道があります。ちなみに山門は徳島県指定文化財になっています。本堂には金色の千手観音もあります。四国で一番古い多宝塔も趣があって良いですよ。 第七番十楽寺から、徳島自動車道に沿って走る川を渡り、土成インターチェンジを過ぎると、やがて道は国道318号線と交差します。この近くには名湯として知られる御所温泉があり、国道を越えたあたりから、道沿いには緑の木々が繁り、心を誘う木影をつくっています。自然の風光を楽しみながら、さらに1kmほど行くと右手に第八番熊谷寺。簡素な造りだがその迫力は圧巻の山門が見えてきます。 仁王門をくぐるとすぐに収経所がある方丈、その隣には駐車場があります。本堂や大師堂のある山の中腹部は、ここからさらに長い石段や坂道を登った先にあります。 歴史と由来ですが、弘仁6年 (815年)、弘法大師が熊谷山で修行したとき、紀州熊野権現が出現し、1寸8分 (5.5cm) の黄金の観音像を授けたといいます。そこで大師は等身大の千手観世音菩薩を刻み、その胎内に権現様より授かった観音像を納め、堂を建立して安置したと言います。これが、熊谷寺の発祥にまつわる不思議な伝説です。 大師が修行した山中には、やがて堂塔がつぎつぎ建てられ、貞享4年(1687年)には四国霊場のなかでも最大といわれる楼門も完成し、立派な寺観を整えるようになったそうです。山中にあったために、戦国時代の兵火にもさほどの被害は受けなかったのですが、残念なことに、本堂は昭和2年 (1927年) の火事によって焼失。現在の本堂は、昭和47年 (1972年)に再建されたものです。 利益とエピソードとしては、境内の納経所の前にある弁天池の中央にぽっかりと浮かぶ弁天島に祀られているのは弁天様です。これは、もともと大師堂の池にあったものを昭和初期にこちらに移したもので、その歴史は古く、昔から安産に霊験があるといわれ、多くの女性参拝客が訪れています。 みどころと食事処ですが、やはり一番の目玉は、 四国八十八ヵ所寺院のなかでは最大といわれる山門ですね。高さ13mで2階、天井には妖艶な天女が描かれています。境内の最深部にある多宝塔も必見です。四国で一番古いといわれる室町時代の建造で、大日如来など5体の仏像が安置されています。
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- 四国八十八カ所の第4番札所、黒厳山大日寺へいってきました。 弘法大師が開いた寺で、本尊の大日如来を阿波藩主の蜂須賀家が信仰したため、保護を受けていました。 大日寺への道のりは、第三番金泉寺から車で15分の距離です。通り道に第五番地蔵寺があるので、 先に寄ってから訪ねる人も多いようです。徳島自動車道の下をくぐって大日寺へ向かう道は途中から狭くなり、大型車は通れないかもしれません。注意です。春にはれんげ畑、秋には黄金色に輝く稲穂が見られる田園から、山裾に入ったところが山門です。 三方を山に囲まれた静かな雰囲気の寺ですね。山門からはまっすぐ正面に本堂があり、右手に大師堂が建っています。霊泉は参道の左手にあるので見逃さないように。 歴史と由来について。弘法大師が開いた寺で、1尺5寸 (55cm) ある本尊の大日如来も大師が彫刻したものです。大日如来は真言宗では宇宙の中心、万物の根元とされる、人々にあまねく慈悲をもたらす最高の仏です。弘法大師は本尊の大日如来から寺名を大日寺と決め、第四番札所に定めました。その後、歴史のうねりのなかで、二度ほど廃寺となりましたが、天和・貞享年間 (1681~88) に建て直されています。 江戸時代になると、 阿波の藩主であったその子孫が大日如来に帰依し、元禄年間(1688~1704)堂塔を修理するなど手厚く庇護するようになったそうです。 その後は大きな災害にあうこともなく、現在に至っています。 真紅という表現がぴったりの鐘楼門を通ると左手に手水所が現れなす。 昔から胃腸にいいと評判の水で、白濁しているのが特徴でしたが、水の出が悪くなって近 年ポンプで吸い上げるようにしたところ、水は透明となり、いつしか霊泉の名も聞かれなくなってきました。それでも、水を手に受けて飲む人が跡を絶たないといいます。冷たくておいしい味わいがお遍路さんに喜ばれているのです。 寺を守る住職は代々真鍋家が継いでいますが、とくに先代の住職は徳のある人で、今ほど薬もなく不治の病に悩まされていた人たちを通夜堂に泊め、温かくもてなしたのだそうです。その温かさはお遍路のあいだで語りつがれていったといいます。 みどころは、本堂から右回りに大師堂へ向かうと、あいだをつなぐ回廊の壁に沿って33体の千手観音が祀られているところです。
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- 第十二番札所の摩廬山 正寿院 焼山寺へ行ってきました。 焼山寺への道ですが、国道438号線へ迂回して約40kmの道程となります。これが現在、十一番から十二番へ至るメインルートです。しかし、徒歩で巡礼する人々には、やはり昔ながらの旧道のほうが人気みたいですね。こちらだと距離はうんと短縮されて約16kmとなるのですが、「遍路ころがし」の名で知られる難所中の難所であり、急勾配の山道は体力に自信のある人でも、けっこうこたえると思います。所要時間も8時間ほどかかるので、やはり午前のうちに十一番札所を出発するようなスケジュールを組んだほうがいいでしょう。めざす焼山寺の境内は、標高800mの深山幽谷の地です。老樹と若樹が入り交じる森の静けさのなか、自らの足音だけを聞きながら歩くのは趣がありますね。 歴史と由来についてですが、もともとこの地は、修験道の祖とされる役小角が大宝年間(701~04) に開いたという修行道場だったといいます。その後、弘法大師が開山に訪れたとき、山道で火炎を吐きながら暴れる大蛇に遭遇、大師は印を結んであたりの火を消し、大蛇を岩に封じ込めたという逸話が残されています。このとき、 虚空蔵菩薩が姿を現し、大師はその姿を像に刻んだそうです。これが本尊となり、寺名とも 「火の山から生まれた」 ことにちなんでつけられたらしいです。 その後、 戦国時代の戦火にさらされることもなく、大師が彫ったご本尊をはじめ、数多くの貴重な文化財が境内には残されています。 利益などについてですが、焼山寺への道の途中には、大師がお休みになったと伝えられる長戸庵など、弘法大師にまつわる旧跡が数多く点在します。 また、仁王門から境内へと向かう参道につらなる杉並木は、徳島県の天然記念物にも指定される名木です。杉の古木が繁る森は、修験道道場としての雰囲気も濃厚に残っています。 見どころについてですが、大師堂や本堂のあるあたりから、さらに山奥深く入ったところに奥の院があります。その途中には、大師が護摩を修したと伝えられる大岩、岩上には大師が彫った三面大黒天も残っています。 このように、焼山寺の広い境内や山中には見どころが多く、時間をかけてあたりを散策してみたくなります。幸い、境内には50人を収容できる大きな宿坊もあるので、一泊してのんびりと大師にまつわる旧跡をめぐったり、山の大自然に親しんだりす
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慈眼寺(四国別格二十霊場第三番)
所在地: 〒771-4505 徳島県勝浦郡上勝町大字正木灌頂瀧18
- アクセス:
徳島自動車道「藍住IC」から「慈眼寺(四国別格二十…」まで 20.2km
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- 先日私が行きたくて、家族連れて山道をグネグネやっとこさ行って来ましたが、目的である、洞窟での修行は狭い穴をロウソク一本で入って行かなければなりません。あろうことか、私の胸板が厚く通る事が出来ず妻と娘に入って貰いました。苦労して行ったのに!
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